あまくてしょっぱいさくらもち

言葉にするということ

大人になるということ②

今日、ようやく免許を取得した。

1月下旬から教習所に通い出して、2ヶ月ほど。
リースすることも決まっているから、これでようやく公共交通機関の時刻に左右されることなく移動できるようになるんだ。

自分の力で自分が行きたい場所へ行けるってすごく幸せだなと思う。
特に来月からはお花見シーズン。秋田にはたくさんのお花見スポットがある。


好きな人とあの道を一緒にドライブしたいな。
後輩や友達を連れてお花見しに行きたいな。

って場所を調べながら、それだけで幸せな気分になれた。

 

それに、自分ひとりだけで行きたい所にも行ける。
私はきっと運転するのが好きになるだろうなって車を手に入れる前から思ってる。

 

自分が思う大人の階段にはいくつかステップがあって、車が運転できることもそのうちの一つ。別にできなくてもいいんだけどね。

その一段に足を置いた今、少しずつ自分もまた大人に近づいているなと感じると同時に、まだまだ大人になりきれない自分に腹が立ったり、情けなくなったりしている今日この頃。

 

だから、今日は少し大人になりきれない自分について。

 

「信頼」ってすごく大事。

ちゃんとやるべきことをする。人を大切にする。約束を守る。
当たり前のことだけれど、私はまだまだ責任というものをちゃんと理解できていない気がする。

特に、お金に関しての意識があまりにも低かった。
お金を丁寧に扱えるかどうか、管理できるかどうかって信頼に直結する。
マイナスに働いてしまったら、取り返しがつかないことが起こりうるんだ。

最近、周りの人たちの期待やこれまでで得た信頼を片っ端から裏切ってしまっている。
自分だけならまだしろ、自分にとって大切なコミュニティ、団体に影響を与えてしまっているのではないかと考えたらとても恐ろしい。

高校生くらいまでは忘れたり失敗したりしても何とかなっていた。
だけど、大学生になってから、まだまだ周りは優しいものの、大人の社会の厳しさを垣間見ている。
一度裏切ってしまった期待を取り戻すには何倍もの努力が必要となる。

 

もうすぐ自分はリーダーという立場になる。まだまだその決断に自信が持てないでいるけれど、自分の行動一つ一つをしっかりと見つめ直す、またとない機会だ。

前リーダーが言っていた。

「メンバーを信頼してはいけない」

極端な言い方だけど、私は信頼されて任されたはずの役割をきちんとこなすことができなかった。それはある意味、自分が自分自身を信頼しすぎていたから。

「私はやればできる」って根拠のない自信でギリギリのところを通ってきた。
そのツケが今まとめて降りかかってきている。 自分の責任だってその状況になってやっと分かり、もがき苦しんでる。

 自分に対する信頼さえ裏切ってしまうのだから、他の人となったらなおさら気を配っていなければいけないと痛感する。

 

この春からは自分の管理能力が試される。
自分のことだけで精一杯だったこれまでから、周りの管理までできるようにならなければいけない。
信頼してもらえる団体を継続していくこと、こんな苦しい思いをメンバーにさせないこと。この二つを目標に頑張っていきたい。

 

留学にいく前に、「自分ちょっと大人になれたかな」って思えたらいいな。

久しぶりの更新。

3月も残すところあと三日。年度末で提出しなければいけない決算の書類なんかがたくさんあるけれど、これまでサボってきてしまった過去の自分が完全に今の自分を苦しめている…
だけじゃなくて、周りの大人にたくさん迷惑をかけてしまっている。

これから、書類とか、お金とか、頭使わなくてもできることはとにかく早く片付けようと心に決めて。そんなことで新しい季節の始まり、一年の区切りを感じている。

 

3月に入って、新しいことがあった。

ほとんどの学生はキャンパス内のアパートに住んでいるうちの大学。しかし、あろうことかその住居の抽選に落ちてしまい、大学の外で部屋を借りることになった。

同じ状況の友達が他にもいて、そのうちの二人と一緒にシェアハウスをすることにした。賃貸のサイトで部屋探しなんて初めてで、ちょっとワクワクした。

 

大学のアパートは基本的にルームシェアで自分のスペースはほとんどない。
実家でも妹二人と勉強部屋や寝室を共同で使っていたから、初めて「自分の部屋」というスペースを持つことができた。
いつかのプロフィール帳交換で、今一番欲しいものの欄に「一人部屋」と書いた記憶がなくもない。
自分だけの空間があるって贅沢だなと感じる今日この頃。

 

そして昨日、帰省や旅行を終え、ようやく3人が一つ屋根の下に揃った。
あんまりちゃんと話したことのなかった二人と初めてたくさんお喋りした。
8月まで、4ヶ月くらいの短い共同生活だけど、楽しく過ごせたらいいな。これも大学生の間の一つ大切な思い出になりそうだ。

 

話していて一つ、みんなで共感できたのは、ちゃんと自分の生活、自分の時間を大切にできそうだということ。
大学と住居が一緒になっていると確かに便利ではあるけれど、常にそのコミュニティから離れられなくなってしまう。物理的というよりはメンタル面で。
「自分」である時間が少なくなっていく気がして、いつも人と会わなきゃいけない緊張感がまとわりついていた感じ。
そもそも、人に見せる用じゃない”本当の”自分って何だよ、そんなのいたのかよ、って考え出す始末。

だから、少し大学から距離を置いた場所に自分の居場所を持てたのは良いことなのではないかと思っている。

完全に一人って訳ではない。だけど、ちゃんと自分一人でいられる時間がある。
3年生になって、留学を目前にして、一人で考える時間ってきっと必要になるだろうし、大切だと思うんだ。

 

変わりたいってそんな大げさなことじゃない。
だけど、このままで自分はまだ満足できない。

心突き動かされる物を追求したい。
自分って何者なのかちゃんと考えたい。
これから自分が進む道を選ぶ準備がしたい。

最近、やっと「したい」ことがちらほら見え始めて、ずっと何となくで生きてた自分から少し抜け出せるんじゃないかなって思うんだ。

 

「なんとかなる」で済ませない。「まあいっか」で終わらせない。

 

そんな気持ちで春を迎えたい。
まだ雪降る秋田に春風がそよぐ日を待ちわびて。

諦めるということ

これはウジウジしない第一歩。
諦めることっていつも悪いことなのかな。
それが自分をウジウジさせ続けることなら、それは私にとってただの足枷なんじゃないのかな。

 

「それは後悔しない選択か」と人はいつも聞く。
だけど、その道を選んで歩いてみないとそんなの分からないよ。
未来で後悔するかより、今の自分を縛り付けてるものはなんとしてでも振り払わなかったらいつまで経っても前にすら進めないんだ。

 

大切なもののはずだった。自分の人生を変えてくれたものだと思ってた。だけど、それはもう私のことを見ていてくれない。自分にとっては大事なものでも向こうにとって自分は大切なものでなくなったのなら、それはただ私を苦しめるだけ。

そんなことにウジウジしているくらいなら諦めることを今の私は選ぶ。
私がどれだけ悲しかったか、その大きさはもう消せない。

本当に大切にしたいものは何としてでも諦めたくないけれど、今の私にはもっと大切にしたいものがあるんだ。

絶望していた自分がちゃんと自分の力で光を見つけられたように、未来の私は自分が生きる新しい道をきっと見つけてくれるはず。
そう思える自信を持てるまで、少し自分も成長できたんだな。

だから、私は大切なものを諦める。

 

 

大人になるということ

先日、ついに20歳を迎えた私。また一段大人の階段を昇ってしまった。

20歳ってもっと特別なものだと思ってた。周りの友達が成人を迎えていくと、ずっと自分より大人になっていったような気がしていたけれど、いざ自分がその立場になってみると、昨日の自分と何も違わない。

 

大人になるってどういうことなんだろう。子どもと大人の境界線はどこに引かれているんだろう。

 

ずっと昔と違って、現在の成人の通過儀礼は形ばかりのものだ。成人式を迎えたら次の日から私たちは大人になるわけではない。

社会人になるまで、いや社会人になっても「若い」ことに甘んじている自分の将来の姿は想像に難くない。

 

バイト先でミスをしてしまった時、店長から「反省はして、落ち込まない」と声をかけられた。私にとって反省するということは、もちろんどうしてそのミスが起こってしまったか分析してこれからどうするか考えることなのだけれど、それよりも反省しているという姿を見せることになってしまっていた。そしてその表現は落ち込むことだと思ってた。こんなに落ち込むくらい反省しているんですって。

自分は反省していると認めてほしい、自分の中で反省できていれば同じことなのに、他人から、特に大人から「ちゃんと反省して偉いね」って思ってほしいのだ。どうしてそう思ってしまうのかは分からないけど、それはまだ自分が子どもだからだと思う。

 

大人になるということは、「自分で自分を認められるようになる」ことがひとつあるのではないかと思う。常に周りが自分を見守ってくれているわけではない。誰かから認められないと何も行動ができないのではダメなんだ。言い換えたら、自分にとってこれは正しい、これは間違っていると思うことをしっかり持って行動できなければいけないのではないだろうか。思っているだけでなく、ちゃんと行動できて大人なのではないか。

 

私たちが「大人になるってどういうことなんだろう」と考えなければいけないのは、子どもと大人の明確な境界線が時代とともに消えてしまったからだ。大学生くらいの年代をモラトリアムと言ったり、ピーターパンシンドロームという言葉が使われたりするように私は今、大人になる準備、大人になることの猶予期間にいる。定められた年齢に強制的に大人として見られることがなくなった代わりに、自分なりの大人像を考えなければいけなくなった。

だから、これからさらに意識してどんな大人になりたいのか、どうしたら大人になれるのか考えていきたい。

 

ここで、20歳の自分の目標を宣言して終わろうかと思う。

  • 丁寧に生きる
    生活習慣や勉強、人との関わり方など、ひとつひとつのことを大切に
  • ウジウジしない
    嫌なこと、悲しいことも良い方向に考えて早く切り替えられるように
  • 言葉にする
    ずっと言っていること。人からどう思われるかは気にせず、自分が納得の言葉で考えを表現できるように

簡単なこと、しょうもないことかもしれないけれど、自分自信を認めてあげるために必要なことだと思うんだ。

 

記録と記憶

とてつもなく忙しなかった一週間にいったん区切りがついて、心に余裕が出てきた金曜の夜。

ついこの間、Googleからの通知をふと開いてみると、Google Photosが「3年前の思い出をふりかえろう」と言って、ちょうど3年前のその日の写真を見せてきた。

3年前は2015年、数字を見るとずっと昔な気がする。
私はそのとき高校2年生。
現在中学1年生の妹が小学校4年生だった頃の写真が数枚。

今ではほぼ背も変わらない生意気な妹の、あどけない笑顔。キャンプに行った時に蛙を捕まえたと私に見せているニンマリ顔、大きな2本の木にくくりつけたブランコに乗ってはしゃいでいる様子、川に向かって石を投げる後ろ姿…。

今とは顔つきも背丈も全然違う妹の写真を見ているうちに、気づいたらどんどん写真を遡っていた。

2年前に携帯をiPhoneに変える前、高校1年生から使っていたアンドロイドで撮った写真が知らない間にすべてGoogle Photosに保存されていた。いやぁ全然知らなかった。

撮った写真を見返しながら、どうしてその写真を撮ったのか、その写真を撮った時はどういう状況でどんな気持ちだったのかを思い出していた。

自分の中では抹消したはずの恥ずかしい記憶もたくさんよみがえってきた。
どうして忘れてしまっていたんだろうと自分を責めたくなる思い出もあった。

 

人って思ってる以上に都合がいい。

 

都合の悪いことはなかったことにする。ちょっとした出来事でも頭の中で脚色を加えて美化してしまう。簡単に記憶を書き換える。

常に”いま”を中心に記憶と付き合ってる。

”いま”の自分の気持ち次第で記憶はいくらでも姿を変える。

 

だけど、記録はその姿をずっと残し続ける。受け取り方は変わるかもしれないけれど、記録それ自体は変わらない。

写真や文章って記憶をその時の形で留めてくれる。人間は都合のいい生き物だからこそ、絵を描いて、文章を書いて、撮影という手段を生み出したんだと思うんだ。その時にしか見られない、感じられない景色や感情を変わらない形に残すために。

 

日記を毎日つけておけばよかった。

 

そう思うことがよくある。だけど、三日坊主の私は続けられた試しがない。こんなに幸せな気持ちを、悲しい気持ちを、未来の私が忘れるわけない。そう思って記録する必要性に駆られることがなかったのかもしれない。

だけど、小さなひとつの出来事がその感情を壊してしまうなんて簡単だ。結局最後は、”いま”しかちゃんと見てないんだから。大好きだった人が大嫌いな人になることもあるんだ。そしたらこれまでの記憶すべてが思い出したくないものになってしまう。それってさ、すっごく悲しいことじゃないかな。

私は後悔してるんだ。大事な記憶を勝手に書き換えてしまっていたことを。だから、これから感じる一瞬一瞬の気持ちをもう忘れたくない。

 

特に言葉にして残すこと、これは私にとって一番合ったツールだと思う。私の頭の中は常にアンビバレント。ひとつ考えたら、でも、だけど…って相反する感情がすぐに頭をよぎる。今だって、逆に記録がないとその記憶がなかったことにされるんじゃないかって少し怖い。

だけど、だからこそ、ひとつひとつの気持ちを丁寧に残しておきたい。残す努力をしたい。それが何のためになるのかはわからないけれど、自分が守ってあげなければ誰も私の気持ちなんて大切にしてくれないんだから。

 

ぼやっとした話だけど、多分私の考えてることって大概ぼやっとしてるんだけど、そういう気持ちこそ残しておかなきゃ忘れ去られる気がする。

自分の気持ちをちゃんと人に伝えられるトレーニングの場としてもブログを活用できたらと思ったり。

 

快晴と満天の星空

昨日までの大荒れの天気とは打って変わって、澄み渡るような快晴から一日がスタート。今日は久しぶりに電車に乗ってちょっとお出かけ。

 

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というのも、今日はあるイベントに参加してきた。

 

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NHK主催の「ザ・ディレクソン」という、地域の視聴者がその地域に根ざした番組企画を立案し、コンペ形式で争い、上位2チームの企画は実際にNHKが番組にするというイベント。

3月に若者が集うイベントに参加した時にディレクターの方からお声かけいただき、ついにこの日が来た。秋田の尖ってる人を集めたということだけあって、知っている人も多かったが、私のチームのメンバーはほぼ初対面の人ばかりだった。

今日初めて会う人たちとチームを組んで、アイデアを出し合い、一つの番組企画を作り上げるのは、想像していたよりはるかに難しく、また想像していたよりずっと楽しかった。

 

私たちのチームは、秋田と東京で遠距離恋愛をしている20歳男女の一日を描くドラマを企画。タイトルは『ハタチの24時 〜600kmの恋〜』。彼女が大学進学を機に秋田を離れ、憧れの東京での日々を送るが東京の喧騒に疲れと疑問を感じる中、やはり2人を繋ぐ心のふるさとは秋田だったというストーリー。最後は、離れていても秋田の満天の星空をバックに…と細かいところまで考え込んで作った自信作だった。現代らしく、SNSでお互いの近況を確認しあったり、そこから日常の中に見える秋田の良さを切り取れたら…とアイデアは止まらなかった。

 

残念ながら私たちの企画は勝ち残らなかったが、プレゼンの練習をもうちょっとできたらよかったということ以外悔いはない。他のチームの斬新なアイデアには幾度も驚かされた。採用された企画がどのように映像化されるのか今から楽しみである。

 

企画を考えるディスカッションの中で、メンバーと秋田についていろんなことを話した。6人いたメンバーのうち秋田県出身者は2名だけ。しかしそれぞれに秋田にいることの意義を見出していて、バックグラウンドを聞くのがとても楽しかった。

実際にNHKで働くディレクターの方もいて、番組を作っている人の視点や考え方を少しではあるが感じられた。テレビに携わる人から見ると秋田はこのように映るのかと思う場面は多かった。

県外出身で、さらに国内外様々な場所に住んだ上で秋田に骨を埋めたいと言っていた方の言葉は力強かった。

はてさて、自分は秋田にいる自分としっかり向き合っているのだろうか。まだまだ表面上でしか感じられていない秋田ではあるが、その奥にはすごくディープなものがあるという確信は強いものだ。考えてみれば、地元以外でこんなに長く住むのは秋田が初めてである。すごく不思議な気分だ。地元は地元で帰ったら懐かしいが、帰省から秋田に戻って来てもちゃんと自分の居場所に帰って来たという実感がある。それはきっと迎えてくれる人がいるからなんじゃないかと思う。安心していられるコミュニティがあるって分かっているから。

だから、結局ふるさとを作るのって”人”だと思う。もちろん場所って大事だけれど、自分だけがそこに生きる訳ではないし。それでもなお、秋田という土地にディープさを感じてしまうのはなぜなのだろう。

 

今私が強く興味を持っているのは、秋田に移住して来た人が感じている秋田の魅力。どうして彼らは秋田に来て暮らすという選択をしたのか、何が彼らにそんな強い想いを抱かせたのか、すごく気になる。

 

今日は久しぶりに多くの人と語り合った。これだけ真面目にチームで一つのものを作り上げるのも久しぶりだった。自然と自分の役割が、それぞれのメンバーの役割が築き上げられていて、自分に極度の劣等感を感じずに何かに取り組むのも本当に久々だった。すごい人が集まっていたはずなのに。

自分の中で少しずつポジティブな変化が起きている気がする。

そんな自分と秋田についてたくさん考えた一日の最後に見上げた夜空には満天の星空が広がっていた。

 

責任感と自分の時間

念願だったブログをやっと始めることができたのに、最初の投稿から約1ヶ月が経とうとしている。

忙しいなぁ、書くならちゃんと書きたいなぁと思っているうちに1ヶ月が経っていることを考えると、時の流れが凄まじく速く感じてしまう。

 

大学生ってもっと暇で永遠に時間があって、その中で何をするかしっかり考えないと無駄な4年間になるものだと思ってた。

だけど、いざ大学生として一年少し過ごしてみると、やらなくてはいけないことに追われる毎日。自分がしたくて始めたことのはずなのに、「あれ、これって本当に私がやりたいことだったんだっけ」、「どうして今自分はこんなことしてるんだろ」ってことばかり。

どうしてそんな状況になってしまったのか考えてみた。

 

先日、人生の先輩兼同期の友人と話していて、「予定がない=時間が空いている」ではないということを痛感した。

私は多分、お節介で比較的人より責任感が強い。もし誰かが忙しくてできないタスクがあって、自分に予定がなかったら「じゃあ私がやるよ」って引き受けてしまう。そして自分のことを後回しにしてそのタスクをこなそうとする。知らない間に、私にとっての優先順位の尺度は「人に迷惑がかかるかどうか」になってしまっていた。

 

物理的に体が取られる時間、例えば授業や課題のグループワーク、サークルや委員会のミーティング、アルバイト等があると思う。自分のスケジュール帳を改めて見直した時に、10分単位でみっちり埋まっている自分の予定を前にして我に返った。

 

”自分だけ”のために使っている時間があまりにも少ない。

 

それは人と会う約束をしている時間も外しての話。もちろん友人や恋人と過ごす時間はとても有意義だし楽しくて幸せなもの。だけど、ひとりになれないとできないことってあると思うんだ。じっくり考えたり、普段のストレスからリフレッシュしたり、読書に没頭したり。最後に時間も他のタスクも気にせずにひとりで過ごしたのはいつだか思い出せない。この1年と少し、自分が本当は何を学びたいのか、何が好きなのかも考える余裕がなかった。常に何かが私を焦らせる。

 

「何かしていなきゃ」という焦燥感がいつからか私につきまとっていて、毎日心と身体が締め付けられてる気分だった。

休学や大学を辞めること、違う大学に行くことも考えていたんだけれど、それはきっとここでできる最大限のことを考える余裕さえなくなってしまっていたから。自分の身体が空いている限り動き続けることが最大限ではない、自由に動き回れる余白を残すこと、これがきっとこれから自分の最大限を引き出すために必要なんだと思う。

責任感に押しつぶされそうな今、この環境から出ようとしているのはポジティブな意味ではなくきっと逃げなんだ。

自分はもうちょっと無責任になってもいいのかもしれない。きっとこのままの自分であり続けると自分だけでなく、他人にも責任を負うことを求めて苦しめてしまう気がする。自分も他人も大切にしようと思うなら、ちょっと無責任なお節介さんになるのがちょうどいいのかな。

 

こう考えられるようになって(書きながらやっと考えを整理できたのだけれど)すごく胸が軽くなった気がする。あとは自分の時間を作り出す勇気が持てたらいいな。