あまくてしょっぱいさくらもち

言葉にするということ

記録と記憶

とてつもなく忙しなかった一週間にいったん区切りがついて、心に余裕が出てきた金曜の夜。

ついこの間、Googleからの通知をふと開いてみると、Google Photosが「3年前の思い出をふりかえろう」と言って、ちょうど3年前のその日の写真を見せてきた。

3年前は2015年、数字を見るとずっと昔な気がする。
私はそのとき高校2年生。
現在中学1年生の妹が小学校4年生だった頃の写真が数枚。

今ではほぼ背も変わらない生意気な妹の、あどけない笑顔。キャンプに行った時に蛙を捕まえたと私に見せているニンマリ顔、大きな2本の木にくくりつけたブランコに乗ってはしゃいでいる様子、川に向かって石を投げる後ろ姿…。

今とは顔つきも背丈も全然違う妹の写真を見ているうちに、気づいたらどんどん写真を遡っていた。

2年前に携帯をiPhoneに変える前、高校1年生から使っていたアンドロイドで撮った写真が知らない間にすべてGoogle Photosに保存されていた。いやぁ全然知らなかった。

撮った写真を見返しながら、どうしてその写真を撮ったのか、その写真を撮った時はどういう状況でどんな気持ちだったのかを思い出していた。

自分の中では抹消したはずの恥ずかしい記憶もたくさんよみがえってきた。
どうして忘れてしまっていたんだろうと自分を責めたくなる思い出もあった。

 

人って思ってる以上に都合がいい。

 

都合の悪いことはなかったことにする。ちょっとした出来事でも頭の中で脚色を加えて美化してしまう。簡単に記憶を書き換える。

常に”いま”を中心に記憶と付き合ってる。

”いま”の自分の気持ち次第で記憶はいくらでも姿を変える。

 

だけど、記録はその姿をずっと残し続ける。受け取り方は変わるかもしれないけれど、記録それ自体は変わらない。

写真や文章って記憶をその時の形で留めてくれる。人間は都合のいい生き物だからこそ、絵を描いて、文章を書いて、撮影という手段を生み出したんだと思うんだ。その時にしか見られない、感じられない景色や感情を変わらない形に残すために。

 

日記を毎日つけておけばよかった。

 

そう思うことがよくある。だけど、三日坊主の私は続けられた試しがない。こんなに幸せな気持ちを、悲しい気持ちを、未来の私が忘れるわけない。そう思って記録する必要性に駆られることがなかったのかもしれない。

だけど、小さなひとつの出来事がその感情を壊してしまうなんて簡単だ。結局最後は、”いま”しかちゃんと見てないんだから。大好きだった人が大嫌いな人になることもあるんだ。そしたらこれまでの記憶すべてが思い出したくないものになってしまう。それってさ、すっごく悲しいことじゃないかな。

私は後悔してるんだ。大事な記憶を勝手に書き換えてしまっていたことを。だから、これから感じる一瞬一瞬の気持ちをもう忘れたくない。

 

特に言葉にして残すこと、これは私にとって一番合ったツールだと思う。私の頭の中は常にアンビバレント。ひとつ考えたら、でも、だけど…って相反する感情がすぐに頭をよぎる。今だって、逆に記録がないとその記憶がなかったことにされるんじゃないかって少し怖い。

だけど、だからこそ、ひとつひとつの気持ちを丁寧に残しておきたい。残す努力をしたい。それが何のためになるのかはわからないけれど、自分が守ってあげなければ誰も私の気持ちなんて大切にしてくれないんだから。

 

ぼやっとした話だけど、多分私の考えてることって大概ぼやっとしてるんだけど、そういう気持ちこそ残しておかなきゃ忘れ去られる気がする。

自分の気持ちをちゃんと人に伝えられるトレーニングの場としてもブログを活用できたらと思ったり。